豊臣秀吉の知恵が冴え渡るトリック戦法。一夜のうちに出現した城とは…。
筑豊地区には戦国時代、豊臣秀吉の九州平定ゆかりのいくつかの山城があります。
「秀吉の一夜城」として知られる嘉麻市の益富城もその一つです。
時は一五八七年四月、秀吉は九州征伐のため家臣、浅野長政、加藤清正、石田三成らの諸将を従え、三十余万の大群を率いて小倉に上陸しました。その時の益富城には秋月種実がいましたが、秀吉軍のあまりの勢いに恐れをなし、一戦も交えずに古処山にある本城に逃れていました。
種実は、秀吉の軍勢がいつ攻め込んでくるのか気が気ではありませんでしたが、ふと向かいに見える益富城下の大隈町の方に目を向けると、驚きの声を上げてしまいました。
眼下に広がる炎の群れは、満天の星のごとく輝き、秀吉の軍勢で埋め尽くされたように見えました。しかも、夜が明けると一夜にして見慣れぬ城が出来上がっていて、そこから流され落ちる水はまるで滝のように見え、秋月の軍勢には大きな驚きでした。これを見た種実は「一夜にして城を築くとは、秀吉という人は人間に非ずして鬼神なり」と戦意を喪失し、豊臣方に下りました。
眼下に広がるキラ星の如き炎は秀吉がたかせたかがり火、突如出現した城は戸板やふすま、畳を集めて作った見せかけの城でした。また滝のごとく流れ落ちる水は、白米を流させたものだったと言われています。
秀吉は大いに喜び、協力した大隈町民に対し愛用の陣羽織と佩刀を与え、お墨付きをもって永年貢税を免除しました。
この故事にちなみ、四〇〇年以上たった今も、毎年十月下旬に市や地元ボランティアのてにより、城跡に一夜城が出現。夜はライトアップされ、様々な催しが開催されています。
≫ 一夜城まつり
秀吉の陣羽織は「華文刺縫陣羽織(かもんさしぬいじんばおり)」といい、桃山文化の見事な仕上がりで、国の重要文化財に指定されています。
一夜城の由来
豊臣秀吉の九州平定時の出来事
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は、近畿、北陸、中国勢およそ20万騎とともに、九州へ上陸し、小倉城から南北二手に分けて平定に乗り出した。南軍は秀長(弟)を将とし、毛利、吉川、黒田、蜂須賀、長宗我部、それに、豊後の大友勢を加えた8万騎をもって豊後から日向に攻め込んで行った。一方、秀吉の本体10万余騎は、小倉から馬ヶ岳城に入った。旧暦の4月1日に豊前(添田町)の岩石城を包囲しこれを攻め落とした。翌2日には、大隈城(益富城)に入り一夜を過ごし、次の日の3日に大隈城を出て4日に秋月の荒平城に入った。
一夜城は、秀吉が大隈の城に入った2日の夜から、3日の早朝にかけてのもので、秋月本城(古処山城)攻略の手段として行ったトリック戦法であり、秋月はまんまとその手に乗って降伏したとされる。
これは、黒田藩の学者である貝原益軒が、寛文11年(1671年)から貞享4年(1687年)にかけて編幕した「黒田家譜」十六巻の第四巻の記述に由来している。ちなみに、黒田家譜とは、黒岳の系図にはじまり、由緒や戦功、信長、秀吉、家康との様々な係わりが綴られたもので、黒岳の歴史書的なものでもある。
黒田家譜 巻之四より
「筑前國大隈の城あり。益富の城と号す。是は秋月種眞が父宗全隠居城として、是之要害よければ、笈にて又上方勢を防がんと思いし虜に、さしも頼みし岩石の城、一日の中にたやすく攻落されぬと聞て、大隈の城に在し者共、我に城を落て秋月の本城古所山に引退く。頑て秀吉公は大隈の城に入給ふ。(略)秀吉公大隈の留り給ひしが、敵の氣を奪はん為、暮に及てわざと嘉摩穂浪の村々に、かがり火を多くたかせ給ふ。南は桑野より、北は飯塚の邊に及べり。秋月家人共、古処山の頂より東の方を見渡せば、秀吉公の軍兵両軍に充満して、諸郡の陣に燃す火は晴たる空の星のごとく、野も山も村里も皆軍兵とみえて夥し。夜明けて古所の山上より大隈の城を見れば、一夜の中に見馴れぬ白壁出来、腰板を打たれば、見る者驚きて神燮のおもひをせなり。是は敵の目を驚かし、勇気をくじかんために、播磨杉原の紙を以、夜中に城の壁をはらせ、民屋の戸板を集めて墨を塗り、腰板にさせ給けるなり。」
上の文章のマーキング部分が由来にあたるところで、「白い紙はって白壁に、また、民家の戸板を集めて墨を塗り、腰板のように見せかけたことで、一夜にしてみたこともない白い城壁が出来たように思わせた。」となっています。
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