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嘉麻市のあゆみ

合併までのあゆみ

山田市、稲築町、碓井町及び嘉穂町の1市3町は、平成16年11月、嘉穂南部1市3町合併協議会を設置してから500日余り、合併に向けた様々な協議をかさね、平成18年3月27日に「嘉麻市」が誕生しました。

どの市町のとっても厳しい財政状況の中での合併であったため、新市誕生当時から、財政健全化が大きな課題となり、現在、行財政改革を積極的に推し進めるとともに、第1次嘉麻市総合計画に掲げる「遠賀川ハートフル嘉麻の里の創造」の実行に向け、市の魅力あるまちづくりに取り組んでいるところです。

1市3町の歴史

  • 山田市

明治22年4月(1889年)に熊ケ谷村、上山田村、下山田村の3村が合併し、嘉麻郡熊田村となり、大正14年4月(1925年)に山田町制を施行しました。その後昭和29年4月(1954年)には市政を施行、翌年昭和30年4月(1955年)に猪位金村の一部を編入しました。

  • 稲築町

明治22年4月(1889年)に山野村、口春村、平村、鴨生村、才田村、岩崎村、漆生村の7村が合併して嘉麻郡稲築村となり、昭和16年4月(1941年)に町制を施工して稲築町となりました。

  • 碓井町

明治22年4月(1889年)に上臼井村、下臼井村、光代村、西ノ郷村、飯田村、平山村の6村が合併して嘉麻郡碓井村となり、昭和16年4月(1941年)に町制を施工して碓井町となりました。

  • 嘉穂町

明治22年4月(1889年)に大隈村、中益村、大隈町、貞月村、牛隈村の1町4村が合併して嘉麻郡大隈村となり、明治25年1月(1892年)町制を施工して大隈町となりました。その後、明治42年4月(1909年)碓井村上西郷を編入しました。
また、明治22年4月(1889年)に千手村、芥田村、才田村、九郎原村、大刀村、泉河内村、東畑村の7村が合併して嘉麻軍千手村となりました。
同じく明治22年4月(1889年)に屏村、椎木村、馬見村の3村が合併して嘉麻軍足白村となり、また、同じく明治22年4月(1889年)に桑野村、小野谷村、宮吉村、上村の4村が合併して嘉麻郡宮野村となりました。
そして、昭和30年1月(1955年)に大隈町、千手村、足白村、宮野村の1町3村が合併して嘉穂町制を施工しました。

法定合併協議会の設置

飯塚市、山田市の2市及び頴田町、庄内町、筑穂町、穂波町、桂川町、稲築町、碓井町、嘉穂町の嘉穂郡8町で各自治体を形成したこれまでの歴史や文化圏及び生活圏の見地から、筑豊地区の中核となる人口20万都市を目指し、平成15年4月に嘉飯山2市8町合併協議会が発足しましたが、足並みが揃わずに嘉飯山2市8町の合併の夢は絶たれてしまいました。

しかしながら、嘉穂南部衛生施設組合での枠組みであった山田市、稲築町、碓井町、嘉穂町の1市3町では、総合的なまちづくりや行政サービスの維持・向上、行財政運営の効率化と基盤の強化を行うために合併が必要であるとの認識のもと、引き続き再検討がなされました。

平成16年9月8日第1回の嘉穂南部1市3町合併の勉強会が発足し、急速に1市3町の枠組みは現実的となり、9回の勉強会を得て平成16年11月に嘉穂南部1市3町合併協議会が発足しました。

市名を嘉麻市に決定

新市の名称は住民の合併への関心を高め、協議会への参画を図るため一般応募され、398種、1,531件の応募の中から「地域の歴史・文化に根ざした名称である」「インパクトがある。」「応募数が多く住民の要望の強さを感じる」等の理由により、「嘉麻市」と決定しました。
他には「嘉穂市」「嘉南市」が最終選考まで残りました。

嘉麻の由来

古くは日本書紀巻十八の安閑天皇の条に「鎌の屯倉(みやけ)」(天皇・皇族の直接支配下である農作期間の総称)を置いた」と記され、その後、和銅6年に諸国の群郷名に好字をつけることが命令され、そのときに嘉麻の字があてられました。

市章の決定

シンボルマークである市章についても、市の名称と同じように一般公募し、全国から1,112作品が寄せられました。その中か豊かな自然と躍動する人をモチーフとして頭文字の「か」を表し、豊かな文化に恵まれた住民のふれあいと快適で心豊かな暮らしと未来への飛躍、発展がイメージされた作品に決定されました。

新市誕生

平成16年11月に設置された嘉穂南部1市3町合併協議会は13回開催され、重要事項である合併協定項目33項目を提案し、協議を重ねました。そして、平成18年3月27日、1市3町の歴史を引き継ぎ、新しく嘉麻市が誕生し、「母なる遠賀川源流の恵みに満ちたふれあいと安心のまち」の実現に向けて歩み始めました。

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